Go to School News 2024.12.1 vol.4
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テーマにつながる分野には、昔から興味を持たれていたのでしょうか?艦や飛行機などの乗りものが好きだったのですが、ロシアの軍艦や兵器に興味を持つようになったのは、中学生のときですね。その頃から、雑誌などにプロのフォトグラファーが撮影したソ連の飛行機や兵器が掲載されるようになって、初めは珍しさから興味を持つようになり、「なんだこれ、面白いな」と注目するようになったんです。また、本を読むのも好きだったので、軍事ジャーナリストが書いた本は読み漁りましたし、「仮想戦記(架空戦記)」にも夢中になりました。昔は娯楽小説の一大ジャンルとして確立されていて、私の中高生時代は、仮想戦記ブームの絶頂期。軍事に詳しい作家が手掛けた練りに練られた壮大な作品から、中学生の私から見てもツッコミどころ満載のものまで、玉石混交でしたが純粋に面白くて「こういうものを書いて生きていく人がいるんだ」と意識するようにもなりました。なかでも佐藤大輔さん*1の作品にはハマりましたね。こうした興味を後押ししたのは、「みんなが知らないことを知っている俺ってすげえだろ」という中二病的な思いですね(笑)。誰に披露するわけでもないオタク的な知識ですが、ニッチな知識を持っているということそのものが、なんの取り柄もない自分の拠り所になっていたんです。昔から、王道ではなく、人が通らない獣道を好んで選ぶような癖があるんですね。選び取っていったその典型が、ロシアという国であり、軍事であり、両方が結びついたロシア軍事の分野だったんです。小泉悠先生(以下小泉) 小学生の頃から、軍——ロシアの軍事・安全保障といった今の研究——高校時代は、河合塾の松戸校に通われていたということですが、早稲田大学を志望した理由は?実は、中学生のときにはすでに将来の夢は「軍事評論家」と書いていたんですね(笑)。なぜなら、サラリーマンは自分には向いていないから、まっとうな勤め人にはなれないだろうと、すでにそのときには思っていたからです。具体的に「軍事評論家」と書いたのは、軍事評論家・江畑謙介さん*2の著作が好きだったから。軍事には興味があるし、ものを書く仕事もきっと好きだろうから、江畑さんみたいな人になりたいと思ったんです。それを見た母は、嫌な顔をしながらも(笑)、「そういう商売はハッタリが大事だから、みんなが名前を知っている大学に行かなきゃだめよ」とアドバイスをくれました。そういうものかと納得したのですが、そのとき私が知っていた大学といえば、両親が卒業している早稲田大学だけ。ほかになんの知識もなかったので、「じゃあ早稲田に行こう」と決めました。受験勉強を続けられたのは、中学時代まで持っていた勉強への苦手意識が高校でスッとなくなり、面白くなってきたことが大きいですね。オタク気質を突き詰めたような性質なので、自分が興味を持てることにはがむしゃらになれるのですが、興味を持てないことには身体が拒否反応を示して、1秒たりともやってられない状態になるんです。ですから、もし高校時代に勉強に対して苦手意識を持ったままだったら、絶対に続けられなかったと思っています。ぜだったのでしょう?中学時代はクラスメートと折り合いが悪く、正直なところ、勉強どころではありませんでした。一方で、進学した千葉県立松戸国際高校では、みんながマイペースに好きなことができる雰囲気がありました。そうしたなかでのびのび学校生活を送り、身体が緩んだところで、「じゃあ勉強してみようか」と思えるようになりました。小泉 小泉 小泉 ——受験勉強は苦労しませんでしたか?——高校時代に勉強が面白くなった理由はな小泉 小泉 ——早稲田大学社会科学部では、どんな学生——なぜ苦しいと思われたのでしょう?また、脳の構造が変わったのか、中学までまったく理解できなかった内容が、すんなり理解できるようになったんです。高2生の終わりから高3生の頭ぐらいにかけては、成績で学年1位が取れるようになりました。いつもトップにいたわけではないですが、成績が上がることで、やりがいが出てきて、また勉強が楽しくなるというループでした。時代を送っていましたか?勉強はあまりしていませんでしたね。私が入学した頃は、学生運動の最後の時代。入学当初、教室はいつも学生運動団体やサークルに占拠されていました。アナーキーな早稲田の最後のしっぽをチラッと見た世代なんです。その後にすぐ機動隊の介入があって一斉撤去になるのですが、最初にそんな大学の様子を見ているものですから、「さあ勉強しよう」とは切り替えができませんでした。勉強らしきものをするようになったのは、多賀秀敏先生の「平和学」のゼミに所属してからですね。そこで勉強しつつ、大学院に進むことになりました。振り返ってみると、あのときが、自分としてはいちばん苦しい時代だったかもしれません。自分がやりたいと思えること、夢中になれる人生の「テーマ」みたいなものが、見つからなかったからです。私のような、好きなことにのめりこむ、好きなこと以外はしたくないと考えるオタク気質の人間にとって、「テーマが見つからない」日々は、とても苦しいものなんです。大学に入学するときには「俺は、なんにでもなれる!」という謎の全能感を持っていたはずなのですが、6年間で、その気持ちはすっかりなくなってしまいました。結果的に、付け焼き刃で書いた修士論文は酷評されることに。うすうす感じていた着地の失敗の予感が、見事に当たってしまったんですね。らっしゃいますね。修士論文の失敗にこりて、卒業するまでの間にせめて就職は決めなくてはと思ってがむしゃらに行動し、なんとか営業職の内定をもらいました。でも、予想していた通り、まったくダメでしたね。人と話すことは楽しかったのですが、嫌なことをやらされている感覚が強くて、会社にまったくなじめませんでした。今思えば、あのとき一生懸命に取り組んでいれば、身についた力はたくさんあったと思うのですが、結局、8か月で辞めてしまいました。か?実は、会社員時代から、執筆活動をコツコツと続けていて。修士論文で失敗したテーマについて、納得いくまで書いてみようと決めていました。すると、なんとなくやりたいことの方向性が見えてきたんですね。そこからはフリーのライターとして、地道に執筆活動を行うようになりました。転機になったのは、「月刊軍事研究」という雑誌に、自分が書いたものが掲載されるようになったことです。この「月刊軍事研究」という雑誌、一癖も二癖もあってエピソードを語るときりがないのですが(笑)、そもそも、まったく無名の私の原稿を載せてくれる懐の広い媒体で、ています。ロシア軍事という自分の興味のあるテーマについて深く掘り下げる一方、それを一般読者に向けて、わかりやすく嚙み砕いて解説する執筆作業は最高に面白くて、続けるうちに、私がやりたいことはこれなんだと確信するようになりました。以降、外務省の調査機関に勤めたり、非常                 3  勤の研究職に就いたり、いろいろな職に就いてい小泉 小泉 ——卒業後は、まず一般企業に就職されてい——その後の進む道はどう決めていったのです得意のない自分に自信をくれたロシア軍事というニッチな世界中学時代の夢は「軍事評論家」母のアドバイスで早稲田に進学「テーマ」が見つからない大学・大学院時代の苦しい日々興味ある分野について書くこと好きなことが仕事につながった50年以上続く老舗雑誌として、今も発行され

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